平和の花チューリップ

 
 チューリップは「愛の花」であると同時に、「平和の花」
です。
 
 16世紀に地中海のまわりの文化圏、とくに西ヨーロッパ
を中心に「近代世界システム」が成立して世界がひとつに
なりはじめた頃から、チューリップは突如「愛の花」
「平和の花」、そして「花の中の女王」として歴史の表舞台
に姿を現します。
 
 キリスト教文明圏とイスラム教の文明圏は昔から、ながい
間にわたって、ずっと対立をつづけてきました。キリスト
教徒の側は聖地イェルサレムを取り戻すために、何度も
「十字軍」の軍隊を派遣(はけん)しました。イスラム教徒
の方も何度にもわたって「聖戦(ジハード)」の軍隊を送り、
両教徒のあいだにはたえず争いが起こっていました。15
29年にはオスマン・トルコがウィーンを包囲してキリス
ト教陣営の神聖ローマ帝国を恐怖のドン底におとしいれ
ました。
 神聖ローマ皇帝はヨーロッパの同盟国に助けを求めまし
たが、当時正面きってトルコに立ち向かえる国など、ヨー
ロッパにはありませんでした。
 1538年になってギリシアのレパントに近い海域で、ヨ
ーロッパの連合軍とオスマン軍がとが激突、トルコ側優勢
の内に戦争は終わり、結局スレイマン大帝指揮下のトルコ
が地中海の王者となりました。大勢(たいせい)が敵の側に傾
いてしまった以上、早いうちに和議を結んでおく方が得策
である、というのが神聖ローマ皇帝の側近たちの意見と
なりました。
 そこで皇帝は、「平和の使者」としてギスラン・ド・ビュ
ズベック[Agier Ghislain de Busbecq 1522年〜92年〕
をコンスタンチノープルへと派遣しました。ビュズベック
(ブスベキウス) は、当時32才。言語学や歴史学・博物学
の分野などですでに該博(がいはく)な知識を身につけた第一級
の学者であり、またトルコをはじめとするアジア地域の情勢
にも精通した辣腕(らつわん)の外交官でした。つまり、彼は
「平和の使者」であると共にいわば“言葉ハンター”であり
“歴史ハンター”であり、そしてまた“動物ハンター”
“植物ハンター”、さらには“国益ハンター”と言える
人物でした。異境の地へ旅立つに当たり、不安を抱き
ながらもビュズベックの好奇心は少年のように燃え立って
いました。不安だったのは、彼の前任者がざんこくな拷問
(ごうもん)にかけられて命をうしなったという悲しい知らせ
が届いていたからでしたが、しかし、知識欲と使命感に
あふれたビュズベックの好奇心は、そうした不安を吹き
飛ばすほど強いものでした。
 
 そのビュズベックがアドリアノ 
ーブルからコンスタンチノープル
への道を急いでいた時のことです。
彼は道ばたに咲く一輪の美しい花
に目をうばわれ、思わず立ち止ま
りました。よく見ると、それは回
教寺院(モスク)の壁タイルや絵皿の
デザイン紋様にしばしば見受けら
れた可憐(かれん)な花に似ています。
 
 「これはなんと言うものか?」
 
と、彼はすぐそばに居たトルコ人通訳にたずねました。
「−これ? このターバン(回教徒が被る頭巾。トルコ語
で tulipan、ペルシャ語では dulband)に似た形の花かね?」
と、その通訳は自分の頭を指しながら聞き返しました。
 この時、ビュズベックはよほどその花の美しさにみとれ
ていたのでしょう、通訳の返答を聞くが早いか、その花の
名は“tulipan”なのだと思い込んでしまいました。(実は
その花の本当の名前は、トルコ語では“ラーレ lale ”と
言うのですが…。)ちょうど、実際には中央アメリカの
西インド諸島にたどり着いておきながら「アジアに到達
した」とカン違いしたコロンブスが興奮の余りの早合点で
中南米の原住民を“インド人(インディアン)”と呼んだ
のと同様な早トチリが、チューリップの伝播の時にも見ら
れたことになります。
 ちなみに、このころの様子を伝えたビュズベック自身の
「手記」がのこされているので、そこに見られる一文を次
に引用してみましょう。
 
  「……私たちが通る時、スイセンやヒヤシンス、そして
  トルコ人がチュ−リパンと呼んでいるたくさんの花々を
  あちこちで見た。それは冬の中頃で、花の季節ではない
  はずであったために、たいへん驚かされたものである。
  ギリシアに咲くおびただしい数のスイセンやヒヤシンス
  は、その匂いに不慣れな人を不快にさせるほど強烈きわ
  まりないものであったが、しかし、チュ−リパンはそう
  ではなかった。それは少ししか、あるいは全くといって
  良いほど香りがなかったが、その美しさと豊かな色彩の
  ゆえに愛されていた。トルコ人たちは、花の栽培には
  非常に強い関心を示していた.彼らは決して浪費家では
  なかったものの、チュ−リパンの美しい花に対してだけ
  は多額の銀貨を支払うこともためらわなかった。私は
  いくつかのチュ−リパンをプレゼントとして贈られたが、
  それらは決して安価なものではなかった。……」
 
 上にみられるように、ビュズベックはさっそく高価なこの
花を手に入れ、ムクゲ、ヒヤシンス、ライラックなどの当時
としては新奇で貴重な草花と共に自分の収集品に加えました。
よく飼いならされた一匹のマング−ス、6頭のラクダ、多数
のサラブレットも、ビュズベックといっしょにヨ−ロッパに
持ち帰られることとなりました。彼の荷物は結局、荷馬車
何台分ものギリシア語の書物や皇帝への土産物(みやげもの)
いっぱいになりましたが、チュ−リップに関しては「外交官
のカバンと同様の貴重品」であるとの細心の気くばりでウィ
−ンへと持ち帰り、そしてその培養をはじめました。・・・・・
こうして、古代以来キリスト教世界ではほとんど知られて
いなかったチュ−リップの花は、「平和の使者」ビュズ
ベックの手によってヨ−ロッパへと紹介されることになり
ました。1554年、コンスタンチノ−ブルに世界ではじめて喫
茶店(コ−ヒ−・ハウス)がオ−プンした年のことでした。
 このようにして「平和の使者」ビュズベックによってヨ−
ロッパにもたらされたチューリップは、その後も、各国で
「平和と友好の花」としてのエピソードをつくりあげて
ゆきます。その内のいくつかを紹介しておきましょう。
 
 17世紀の日本の鎖国時代。ビュ
ズベックの友人クルシウスの手に
よってチューリップが伝えられた
オランダは、その鎖国時代に日本
との貿易を独占していました。布
教や征服を考えないで、ただ互い
の利益をふやすために貿易だけで
結びつきをもちましょう、という
姿勢を示したオランダ商人が、徳
川幕府のとくべつな許しを得ることができたからです。
その当時のオランダ東インド会社(VOC)の貿易船にかかげ
られた社旗のひとつに、まだら紋様のチューリップが描かれ
ています。鎖国時代、「チューリップ狂騒」といわれるくら
いのチューリップ愛好熱にとりつかれたオランダから、チュ
ーリップの図版やチューリップについての情報が日本に伝わ
っていないはずはない、と感じた下山先生は日本中をさがし
てまわり、とうとうこの旗を大阪の南蛮文化館で「発見」し
たのです。日蘭友好のシンボルとして、この旗は江戸期の日
本人に、いったいどのような思いを抱かせたのでしょう? 
興味が尽きないところです。
 
 17世紀から一気に20世紀の現代に目を向けてみると、ざん
ねんなことに、日本とオランダとチューリップにかかわって、
戦争のエピソードがまずは思い起こされることになります。
 世界を破滅と荒廃のドン底に突き落とした第二次世界大戦。
この戦争の折、日本はヨリによってヒットラーのナチス・
ドイツと同盟関係にありました。戦争をすすめるためには、
野蛮さと勇ましさが第一に求められます。
 そのため、貧しい中で一所懸命そだててきたチューリップ
をどうにか守りつづけようとした人たちは、「文弱のやから」
と悪口をいわれ、「花なんか育てていて、戦争に勝てるのか!」
とどなりつけられていました。不況にあえぎ、戦争の奈落に
落ちこんでゆく祖国を、せめて美しいチューリップの花で
かざりたい、と願っていた水野豊造(ぶんぞう)のような心やさしい
人たちの努力も、太平洋戦争の勃発ですべて無駄なものに
なってしまいました。せっかく軌道に乗りかけていたアメリカ
への球根輸出が、まったく禁じられてしまったからです。
  一方、ドイツとアジア・アフリカの植民地などを奪い合
ってナチス軍の侵略をうけたオランダは、ヨーロッパでも
とくにひどい戦争被害を早くから受けることになってしまい
ました。1939年のポーランドへの侵攻後、ナチスはデンマ
ーク、ノルウェー、ベルギーに軍隊をすすめ、オランダも
支配下において各地に強制収容所を建てました。帝国主義の
列強諸国はどこも許し難い侵略主義を推進しましたが、とく
にナチスの戦争犯罪は、民族浄化策や人種主義、反デモクラ
シー、反国際主義と強固に結びついた組織的な大量殺人犯罪
でした。近代奴隷貿易やアメリカ先住民に対する大虐殺に
ひってきするような野蛮きわまりない行為(くわしくはここ
が、ヒットラーが権力をにぎっていたほんの数年の間に実行
されたことは、ただただ驚きと言うほかなく、しかもそれは、
わずか半世紀前のヨーロッパ文明圏での出来事だったのです。
 「劣等人種」のレッテルをはられた人たちは、老若男女の
区別もなく、根こそぎ毒ガス室や鉱山に送られました。オラ
ンダ王室にも危機が迫り、ユリアナ女王や王室関係者は亡命
を余儀なくされました。近隣のヨーロッパの国ぐにも悲惨
きわまりない有様で、女王は、遠く大西洋を越えてカナダ
への亡命をえらぶことになりました。
 カナダの首都オタワで終戦を迎えた女王は、オランダへの
帰国後、じぶんの古里が滅茶苦茶になってしまったことを
知って、悲しさに胸がはりさけそうでした。ながい間かか
って国中に咲かせてきたチューリップの畑も滅茶苦茶にさ
れ、もう二度とふたたびオランダが栄えることはないのでは
ないか、と思ってしまうほどでした。
 しかし、戦禍に荒れ果てた国土の片すみに、チューリップ
の球根は残っていました。そうした球根は、戦時中から、
食用球根として人びとの飢えを和(やわ)らげるのにも役だって
いました。
 そこでオランダ政府は、戦後復興をささえるもっとも重要
な産物にチューリップを指定し、さまざまな援助や助け合い
を行いました。そして、苦しかった亡命生活を支援してくれた
カナダの人たちへの心からの感謝 
の気持ちとして、終戦直後の19
46年に早くも2万球ものチュー
リップの球根を贈りました。その
後も女王は毎年10万球ずつの球根
を贈りつづけ、カナダの人たちも
その球根をたいせつに育てつづけ
ました。
やがてオタワだけで何百万本もの
チューリップが咲き乱れるように
なり、今ではカナダは世界有数の
「チューリップ王国」になっています。
 
 なお、第二次大戦が終わったあと、水野豊造さんは品種改良
に精を出し、自分でつくりだしたチューリップの新種のひとつ
に「平和」という名前を与えました。1554年に「平和の使者」
ビュズベックが宝石を持ち帰るようにしてヨーロッパに伝えた
チューリップは、400年近い時を経て、まさに「平和」という
名前で、私たちの国で咲き誇っている訳です。