人 買
人身を買い取り転売して利を得る行為または行為者のこと。実際には誘拐することが多く、その場合も含む。その意味で、人勾引(ヒトカドイ)(誘拐者)の「ど」の音が略されて「ひとかい」と発音するようになったとの説もある。しかし、「ひとかい」の語の初期の例では、すべて勾引(コウイン)者とは区別されており、かならずしもこの説を支持できない。
誘拐行為は時代により表現・違法性の度合いも異なるし、また人身売買の語のさす内容も時代により異なる。古代律令(リツリヨウ)制では、誘拐行為を「人ヲ略ス」、そのうえで売ることを「人ヲ略売ス」と称し、遠流(オンル)の刑としている(養老(ヨウロウ)賊盗律)。それが本人の同意のうえならば「和誘」と称し、刑も一等を減じている。平安後期以降中世には、誘拐は一般的には「勾引」(こういん、かどい、かどわかし)と称するようになり、「子取り」の語も現れてくる。誘拐した人身を売る行為を「人売り」と称し、それを買い取り転売する業に従事する者は一般的には「人商人(ヒトアキビト)」または「売買仲人(ナコウド)」とよばれた。中世になってこのことばが定着した背景には、人身売買事業が恒常化し組織的に行われるようになってきたことと、さらに一般的には、諸貢租の重圧や飢饉(キキン)などにより貧しい庶民の子女の売られる場合が多かったことがある。鎌倉幕府や朝廷は、人身売買・勾引行為を禁制し、ときに「人勾引」を行う者や「人商」の輩(トモガラ)に対して顔面火印の刑で臨むこともあった。しかし14世紀に入ると売買を目的とした勾引行為については、「盗犯に准ず」(追加法)としているように、その盗犯行為のみが問題にされるようになった。中世にあっては下人(ゲニン)など奴隷が逃亡することも主人の側からは「人勾引」と称されているが、このことは人間が財産視され、それを不法に奪う場合のみ「人勾引」としてその違法性が問題となったと理解すべきである。「人買」の語は室町期には「人買船」などとして現れるが、一般化するのは近世初頭以降である。江戸時代では、奴隷身分と人身売買が基本的には否定され、幕府は勾引行為を死罪をもって厳禁したため、「人買」の語は一般的にはむしろ合法的な年季奉公人としての遊女に売る者などをさし、貧しい庶民の側からは「女衒(ゼゲン)」などと同一存在とみられた。
近代以降においても、厳密な意味では、人身売買は厳禁されていたが、前借金により労働者の人身に強度の拘束を行う場合があった。もっとも多かったのが、貧しさから女子が娼妓(シヨウギ)にされる場合であり、その際仲介業者や債権者を「人買」とよぶこともあった。このような行為に対して、政府は1872年(明治5)の太政官(ダジヨウカン)布告で禁止の立場を示していたが、実質的にはその後も半合法的に存続し続けることになった。また日本資本主義の底辺を担った紡績・製糸業に従事する女工も貧困な農村から前借金などによって集められることが多く、その募集にあたった業者も「人買」とよばれることがあった。このような労働者の存在は、新憲法で基本的人権の尊重が掲げられ、労働基準法で労働者の権利が確立され初めて一掃された。
〈磯貝富士男〉
【本】牧英正著『日本法史における人身売買の研究』(1961・有斐閣)
▽同著『人身売買』(岩波新書)
(SONY/小学館『日本大百科全書』電子ブック版の項目を転載)