古代エジプトの奴隷制  __Slavery in Ancient Egypt
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A Study on Ancient Egypt
by Professor YOSHIMURA Sakuji (Waseda Univ., Tokyo)

古代エジプトの奴隷制


石と宗教の交響曲

 雄弁家キケロによって「歴史の父」と讃えられたヘロドトスは、後世に幾つもの名言を残している。その中でも、「エジプトはナイルの賜(たまもの)」という名ゼリフは、今日最も広く知られたものと言うことが出来るだろう。−−まさにその通り、ナイル河なくしてエジプトはなく、エジプト人とは「ナイルの水を飲む者」のことである。
 そのナイル。全長670Hに及ぶ世界最長のこの大河は、毎年夏季にゆるやかな大氾濫をよび起こし、流域一帯を稀有の沃土に変える。それゆえ、溜池をはじめとする各種の適度な灌漑作業を怠らなければこの一帯は年2回、収穫の可能な大農業地帯となる(1) 。 旧約聖書「創世記」にもエジプトは「古代世界の穀倉である」と記されてあり、古代ローマの著述家もまた、この地を「地中海の穀倉」と呼んでいた。チグリス・ユーフラテス両河の不定期な氾濫がメソポタミアの人びとに「神の罰」と把えられたのに対し、定期氾濫によって沃土をもたらすナイルの方は「神の恵み」として受けとめられた。
 古代エジプト人はすでに紀元前3500年以前にこのナイル流域河谷に40余の州(ノモス)を築き上げ、のちに「石と宗教の交響曲」と謳われる一大文明圏をつくり上げはじめていた。ノモスの増加と拡大は自ずと人口の激増を伴い、より新たな耕地の開拓と灌漑とがくり返された。そして、本来、「人間をとり巻く自然環境の社会的な制御一一それを節約するとか、大規摸に人工的な手を加えるとか、馴らすとかする必要一一は、産業史の上では最も決定的な役割を演じる」ものである。それゆえ、「ナイル河の水量増減の周期を算定する必要は、エジプトの天文学を生み出し、また、それと一緒に、農業の指導者としての僧侶身分の支配を生み出した」(2) 。 そしてこの僧侶支配の対極に、奴隷という被支配層が生み出されていくこととなった。
 僧侶支配の最上層部には王(ファラオ)が君臨して、ナイル流域の大部分の社会を統治した。「大きな家」の意味を持つファラオは「神の子」として祭政未分化の神権政治を行い、神性ある支配者、即ち「神王」として膨大な官僚機構の頂点に立った(3) 。ピラミッド、スフィンクスの物語と共に、このファラオについては早くからわが国で研究が進んでおり、西洋古代史の中でも最もポピユラーな対象となっている筈である。ただし、厳密な学問研究のレヴェルでは、必ずしも万人共通のファラオ像ないし古代エジプト史像が得られている訳ではない。それは例えぱ、ファラオが君臨した王朝の時代区分の多様さひとつを例にとってみても頷けることである。これは、古代エジプト文明が実に3000年以上の永きにわたって持続した、という一事に基づく当然と言えぱ当然の帰結であるが、学者によっては百年、二百年程度の年代のズレも決して稀なことではないという点については、予め心得ておいた方が無難であろう。本書では、差し当りカイロ博物館発行のパンフレットの時代区分に従い、主に古王国・中王国・新王国の三時代の奴隷制の展開について概観しておく。

【古王国】

 エジプトと言えぱまず頭に思い浮かぶのはピラミッドであるが、このピラミッドの建設ラッシユは、実は紀元前2600年から前2100年にかけての500年間、即ち古王国の時代に集中して起こったものである。その為、多くの史家はこの古王国時代を「ピラミッド時代」とも呼んでいる。
 今でも、古代エジプトと言えば暴虐無慈悲なファラオの圧政の下で鎖につながれた多数の奴隷がピラミッド建設に死ぬまで従事させられた、といった想像を持つ人が一般には少なくないものと思われるが、しかしそれだけでは知識は正確とはいえず、また何ら具体的ではない。事実は、ピラミッドは奴隷労働の産物というよりは、ナイル増水期四ヵ月の農閑期のみの集約的強制労働の産物であり、一定期間にわたって国家が総動貝した全人民による強制的な労役奉仕、即ち季節的な夫役(ぶやく)の産物であった。最近の研究では、「強制労働」とは言っても、一種神聖な「お祭り的な賑わい」の雰囲気さえピラミッド建設には伴った、とも言われている。その真偽はともかく、いずれにしてもナイル河岸沿いの耕作地は毎年4月から7月に冠水期を迎え、これによってエジプト社会は農閑期に入る。この農閑期に古代エジプト国家は、それまでに徴収し蓄えたパン・ピール・大根・タマネギ・ニンニク、そして衣服、更には下剤といった諸物資を支給することによって奴隷を含む全人民の労働の供給を受け、巨大極まりない王墓、ピラミッドを築かせた訳である。一説によれぱファラオから人民に支給された衣服や食料の総額は、今日の金額にして数十億円から数百億円にも達したという(4) 。
 ところで、紀元前150年頃、ビザンチウムの数学者フィロンは「世界の七不思議」として(1)エジプト・ギザの大ピラミッド群(2)バビロンの空中庭園(3)オリンピアのゼウス神像(4)ロードス島の巨人像(5)ハリカルナッソス(=現トルコ領ボドルム港.ヘロドトスの生地)のマウソロス霊廟(6)エフェソスのアルテミス神殿(7)アレクサンドリアの大灯台 の七つの建造物を挙げた。これらの内、今に遺るのは実はギサのピラミッド群のみである。その内の大部分のものは、主に第4王朝期(前2600年〜前2480年)に造られた。中でも最大のクフ王のピラミツドの内室には、ギザから1000Hも離れたアスワン産の上質花崗岩が用いられ、内室以外の本体にはナイル東岸から切り出された大量の石灰岩が使われた。一個の岩石の長さには色々なものがあったが、高さは1メートル、幅は2メートル、重さは2.5トンというのが平均であった。そうした岩石が実に250万個、高さ150メートルに積み上げられ、ピラミッドの総重量は625万トンに及んだ。現在、もしこれだけの岩石を運ぶとすれぱ、18トン積みトラックが青森から鹿児鳥までスキ間なく並ぶことになるが、この膨大な材石を運んだのは、一人当たり688キロカロリーの仕事を行う奴隷・隷農であり、油を塗りたくった桁(けた)(横木)や捲揚器であった。即ち、もし当時の奴隷たちが今日のサラリーマンと同様に一人平均100ワット程度の仕事率を持つものと仮定し、その奴隷が8時間ぶっ通しで働いたとすれぱ、0.8キロワット・時、つまりは688キロカロリーの仕事を一日に行なったことになる。この奴隷が計10万人、20年間働いたとすれば、総エネルギ一は5184億キロジユール。もし石油の機械エネルギーへの変換効率を3分の1と見れぱ、ピラミッドの建殻には実に41300キロリットル、即ち30リッター容量のプルドーザーが延べ100万台以上必要だった、ということになるのである(5) 。
 以上のような史上最大のピラミッドの建造者クフ王は、後世においては奴隷をこき使う暴君の代表として言い伝えられることになった。その生涯や業績については未だほとんど何も具体的に知られてはいないにも係わらず、「巨大ピラミッドを建造させた王(ファラオ)とは奴隷をムチ打って使役する残虐な支配者だった」という一種の神話が、特に中世以後の聖書の記述の短絡的な解釈などと共に広まり、19世紀の一直線的な進歩史観の中で定着してしまったのである。エジプトのファラオによる人民の支配が、世界の政治史の中で特別きわ立ってDespotic なものであったかどうかは、今後の更に厳密で詳細な比較研究の課題だと考えられねぱなるまい。
 それはともかく、クフ王時代の奴隷制の話題に続けて、その先王スネフルと奴隷制との係わりに目を向けてみることにしよう。何故なら、スネフルは「暴君」クフとは全く対照的に、「心優しき名君」の評価を得て広く民衆からも敬愛されたという類稀なファラオだったからである。
 スネフル王は第4王朝の始祖で、在位は紀元前の2600年頃。多くの俗文学・智慧文学の中で「希代の賢王」と謳われ、500年以上も経った中王国期にその葬祭殿がわざわざ再建されるほどの大名君であった(6) 。治世24年間の内に近隣の諸民族を順次鎮圧し、当時最も貴重であったレバノン杉の貿易を独占、近東及び北アフリカ各地に鉱山を開削して武具・食器・日用品の交易を統轄したとされる。資料に残された「支配者の人物像」などというものについては、相当な誇張と創作とを間引いて考えねばならないのが常識であるが、或る資料は同王を評し「容姿端麗にして物腰は低く、しかも王としての才覚と威厳とを備え持っていた理想的な名君であった」とも伝えている。
 しかしながら、最大級の讃辞をもって形容され続けたこの「大名君」の実像は、征服され奴隷となった近隣諸民族の境遇を考え合わせるならぱ、一面においてやはり「暴君」の性格を持ったと言わねばならないものである。概して古王国時代の奴隷制については余り豊富な資料は見つかってはいないのであるが、スネフル治世下での大規模な奴隷取引の展開を立証する碑文が出土しており、それが同王の「暴君」としての一面を立証している。それに拠ると、戦争と征服と掠奪とによって彼が捕えた奴隷は膨大な数にのぼり、例えば治世半ばにはヌビア人7000人とウシ20万頭、治世末年にはリビユア人1万1000人とウシ1万3000頭がこの「名君」の手によって略取された、という。当時のノモスの規模を鑑みるならば、奴隷化される側の民族にとってはスネフルの遠征活動は、潰滅的といって良いダメージをもたらしていた筈である。捕えられ奴隷化された者たちは、傭兵・警察軍・保安隊といったポストでおもに用いられ、後世とは異なって、主産業たる農業にはほとんど用いられなかった様であるが、シリアの銅山やヌビアの金山での苛酷な鉱山採掘作業には集団で大量に徴用された(7) 。「名君」とは「暴君」の別名であり古代エジプトの黄金文明はすでに古王国の時代から奴隷制と共に歩んだといえる。

【中王国】

 古王国末期から動乱・下剋上の第汳間期を経て神王(ファラオ)の絶対的権力が一時低下する一方で、地方の州侯たちは自らの支持基盤を確保すべく「小人(ネジェス)」と呼ぱれた都市庶民層を保護し、中央権力からの自立の度合いを強めていく。その過程でエジプト社会は、政治・経済・宗教・文学等のあらゆる分野にわたって市民化・世俗化し、いわゆる「庶民国家」としての中王国の時代が訪れるのである。都は北方デルタ近くのメンフィスからナイル南方のテーベへと遷(うつ)され、いわゆる「王陵の谷」に新たな文化圏が華ひらいていった。
 政治面での世俗化は、庶民層の官吏登用への道を開き、人びとはある程度身分に係わりなく文字を習い、ホワイトカラーとしての技術や知識を身につける機会を得るようになった。第汳間期最末期、第10王朝期に書かれた「メリカラー王への教訓」には、「貴族の子弟と素姓卑しき者とを分け隔てしてはならない。能力によってこそ、人々を取り立ててやるべきである」との一節が見られる(8) 。古代エジプトにも、「冠位十二階の制」を定めた聖徳太子や、「この国(独立直後のアメリカ)では人々は家柄や身分によってではなくその能カによってこそ評価される」と宣言したフランクリンの如き政治家が居た訳である。もっとも、通常はファラオ時代のエジプトではシュメールにおけると同様、「系図なき者は卑しき奴隷」との通念が根強く、基本的には奴隷はやはり社会の最底辺に止め置かれるべき階層として、例えぱ氏姓を持つことが厳しく禁じられていた(9)。
 中王国も後半期に入って、第12王朝期には「ドゥアケティの教訓」が書かれた。これはいわぱ当時の官吏養成の手引書で、書記以外のあらゆる職業の辛さ、卑賤さを強調することによって、如何に官吏の職が値打ちが高いかを説いたものである。こうした手引書が書かれた背景には、中王国という、古王国に代わる新たな統一王国の行政組織での人材確保といった、国家の側の要請があったのであろう。
 ここで間題になるのは、上の「ドゥアケティの教訓」(=別名「職業の風刺」として知られる)に描かれた奴隷的労働の実体ないしは実情の間題である。無論、「奴隷的労働」とは言っても、この教訓の執筆者の観点からすれぱ書記以外の職業は全てそれに当てはまるとされており、あたかも古代ギリシアの哲人たちがあらゆる技術職・肉体的労働を蔑視したのと同種の頭脳労働者の特権意識を思い起こさざるを得ない。従って、教訓の内容にはかなりの誇張や思い込みがある、と考えておかねぱならない。とは言え、次に引用する一節に見られるリアルな描写などは、やはり専制的な国家権力によって徴用され夫役を課された最下層民の嘆きを今日に伝えたものとみて差し支えはないだろう。

 農夫はホロホロ鳥以上に嘆き悲しみ、その泣き声はカラスよりも大きい。指はいっぱいの肉刺(マメ)で膿み爛(ただ)れてしまっているからだ。もしデルタに登録され、そこに追いやられたとしたら、もうおしまいだ。干拓地に行って苦しむことになる。何故なら、そこでの賦役は三倍とされ、しかも報酬は病気でしかないからだ。そこから出て来たとしても、もうくたくたになって家に帰り着くことになる。重い租税が彼をこなごなにしてしまっているからだ。              
 編み師は、絹み物工房にいる。その状態は女共よりも遥かに悪い。・・・(中略)・・・もし織らないで一日を過ごせぱ、鞭で50回も打たれることになるだろう(10) 。

 上に先に見たように、中王国第12王朝期には、新統一国家の行政基盤を整える為に広く庶民層からも人材を掘り起こす方策が採られはじめた。しかし、やはりそれでも人材の不足は十分には補えなかった様であり、中王国末期から第中間期にかけて主に特殊技能の所持者の獲得をめざして、かなり活発な奴隷貿易の展開が見られる様になった(11) 。そしてその後、異民族ヒクソスの支配を受けて以後成立する新王国の時代に入って、エジプトは積極的な対外進出策を採用するに至り、征服は征服を生んで古代エジプトの奴隷制は最盛期を迎えるのである。

【新王国】

 新王国時代は、エジプトが広くオリエント全域にその権勢を示すに至る時代であり、「帝国時代」とも呼ぱれる極盛期である。即ち、第18王朝の始祖トトメス汾「に始まったアジア・アフリカ・地中海周辺への帝国主義的拡張政策は、以後約300年の永きに及び、第19王朝第四代のラアメス世[在位:前1304〜1237、カルナック百柱殿の建設者として有名]がヒッタイトと和議を結ぶまで続くことになる。そして、この時期には至る処から途方もない財宝がエジプトに流れ込み、今に遺る巨大な神殿群の大半が造り上げられることになるのである。17回に及ぶアジア遠征によってエジプト史上に最大の版図をもたらしたトトメス。世[前1504〜1450]前代未聞の大建築フィーバーや徹底的宗教改革によって先王の財産を食い潰していったアメンヘテプ。世並びに「世(イクナトン)、同「世の後継者となった少年王ツタンカーメン[前1364〜61]、史上最大・最美と言われる王墓を造り上げたセティ汾「、−これらの諸王の栄華の有様については、我が国でもかなり広く知られていることであろう(12) 。
 国が富み栄え、その権力中枢を少数の「小人」たちが牛耳った場合、政治の腐敗は堕落した金権政治、つまりは賄賂の横行に帰着する。専制政治の否定された今日においては、そうした不正が行われた場合、良識ある当事者は良心に従って姿勢を正す機会を与えられ、また厳正な裁判や健全な世論によって腐敗を取り除く努カが払われ得ることであろうが、しかし、古代エジプトにあっては、公事に係わる官吏の不正に対しては、直ちに王命によって厳罰処分の与えられるのが通例であった。特に賄賂に対する処罰は、その授受を噂されるだけで「資格剥奪・追放・強制労働」という厳しいものであった。政治は「奉り事」であり、政治を汚すことは神を汚すこととみなされたかあである。例えぱ、上に名を挙げた第19王朝セティ汾「の或る勅例には、次のように書かれている。

 賄賂を要求すると人々に言われている神官はその地位より迫放し、農夫(奴隷)とせよ。....... 神宮に賄賂を与えると人々に言われている運搬人・神父・下級神官・典礼司祭はその地位より追放し、農夫とせよ。

 一般人に関しては、税金の未納・怠業・逃亡等について上と同様な刑罰が与えられ、「人身配分局」の管理の下に強制労働が課された。個人の所有品を盗み取った場合は盗品を返却の上、その品の2〜3倍の賠償を支払い、神殿の所有品については百叩きと百倍の賠償が課された。古代エジプトの生産を基本的に支えた家畜の窃盗に対しては更に重い罰が与えられ、個人家畜の窃盗には両手の切断、神殿家畜の窃盗には耳・鼻を削ぎ奴隷化するという残酷な刑が課されたという。最大のタプーは祭祀具の盗みで、これに対しては即刻死罪が与えられた。官吏が当時の国権の最高機関、即ち神殿に係わる犯罪をなした場合の罪も非常に重く、その妻子までもが奴隷化された。

 アビユドスのセティ汾「葬察殿の境界を移し、神殿に害をなす官吏は、この神殿領の管理者であると耕作者であると代官であるとを問わず、鼻と耳を削ぎ、同葬祭殿の農夫とせよ。.......アビュドスのセティ汾「葬察殿の家畜を盗むのを見つけられた官吏は、鼻と耳を削いでこの神殿の農夫とし、その妻子は、この神殿の長の奴隷とせよ。....... アビュドスのセティ汾「葬察殿の男が訴えをしに市の法廷の構成員のもとにやって来たにも係わらず、これを聞かず、その言を受けつけない者は、百叩きに処し、その地位から追放し、この神殿の農夫とせよ(13) 。

 金権政治、腐敗政治の陰で苦しんだのは、一般庶民である。
 勿論、「金権政治」とは言っても、金塊や銀塊による取引が見られた程度で、国家信用の裏付けを持った貨幣の制度が十分に発達していた訳ではない。特に新王国の時代に入るまでは古代エジプト社会は自給自足の農業経済が基本で、商業・金融は本格的な発達を未だ遂げてはいなかった。「商人」を表すエジプト語が現われるのは新王国後半期以後のことであり、しかもその「商人」とは、少数特権階級に囲われた一部外国人商人(シリア人)に限られていたのである。こうした社会には、基本的には債務奴隷は存在しない。
 しかしながら、貨幣の発達は不十分でも、書面による取引は大々的に行われ、信用制度それ自体はかなり高度な発達を見せていた。その為に、一方では各種文書の作成を独占する書記の特権化、他方では庶民の債務奴隷化的な没落が着々と進行していった。新王国末期にはこうした現象は完全にエジプト社会に定着し、大インフレ時代であったラアメス。世の治世には、債務奴隷が激増する一方で、全耕地の7分の1(75万エーカー:1エーカーは約4,046.81湖)、50万頭の家畜、10万7千人の奴隷(=全人口の13分の1に当たる)を、ほんのひと握りの書記・僧侶が独占するに至った、と言われている(14) 。
 民(たみ)が富まず、少数の特権階級だけが自己の目先の富裕化にのみ汲々とする社会は、やがて活力を失い、衰亡への道を歩む他はない。3000年以上の輝かしい歴史を誇った古代エジプト社会が、新王国において事実上その文明の命脈を絶つに至ったという史実の基底部には、こうした社会内部の矛盾も大きな意味をもって作用していたとみるべきであろう。
 ところで、新王国時代の相次ぐ周辺諸地域への拡張政策は、自ずと膨大な数の奴隷をもたらし、特に紀元前二千年紀には、エジプト社会の中で奴隷が極めて重要な役割を果たしはじめることになる。私的な奴隷所有も一般化し、中王国期までは王族やそれと繋がりのある貴族・神官の間に限られていた奴隷の保有・使役が、広く社会のあらゆる部面で見られるようになるのである。シュメールの場台と同様、一人の主人が所有する奴隷数は小規模で、一人ないしは二人に限られることが多かった様であるが、奴隷は、牛飼い・妾・理髪師・馬丁.兵士・歌手・商人・サンダル作り・機織り・農夫・庭師・家内雑役・屠殺人・鳥射ち・漁師・金銀細工師等々、あらゆる職種にわたって使役されることとなった。今日現存するものの中で最長のパピルスであるハリス・パピルスには、ラアメス。世の治世だけで「岸辺の砂の如き多数の奴隷が捕獲され寄進された」と記されている。当初は奴隷の大部分は女性であったが時代が下るにつれて男奴隷の比重が大きくなっていった、と言われているが、これは労働奴隷制の重要度の高まりを傍証する史実として、留意しておくべきものと思われる(15) 。

 では、「岸辺の砂の如き多数の奴隷」とは、具体的にはどの程度の実数を示すものであったのか。以下、幾つかの事例を挙げておかねばならないだろう。  まずは第18王朝。ここでは、トトメス。世、アメンヘテプ世、アメンヘテプ。世の時代について、幾分豊富な資料が知られている。トトメス。世は、先に述べたように、17回に及ぶ対外遠征によって勢力版図を拡げ、シリア・フェニキア・パレスチナ・ヌビア等を包含する大帝国を築き上げたファラオで、「古代エジプトのナポレオン」と称される人物である。その年代記に拠れぱ、第一回アジア遠征のメギドの戦いで340人、カデシュ攻城戦で2503人をはじめとして、第八回までの遠征で7645人、総計8千数百人の捕虜を奴隷化したと言われている。貢納奴隷や投降者を含めれば全総計は1万数千名に及ぶ、との推計もある。王の治世の永さに鑑みてみれば意外に少数の数ではあるが、以後の遠征や奴隷貿易を助長し促進したという点でも、このトトメス。世の征服事業には大きな歴史的意義があったと言って良いであろう。17回の遠征の具体的な内容については、かなり詳しく明らかにされており、以下にとりまとめておくことにしたい(16) 。

  第 一 回 (治世23年)メギド、レバノンから2843人
  第 二 回 (治世24年)レテヌより95人
  第 五 回 (治世29年)チュニップ、アルバドから380人
  弟 六 回 (治世30年)カディシュ、アルバド、シミラから183人以上
  第 七 回 (治世31年)ウラザ、ゲネブチウ等より黒人を含む519人以上
  第 八 回 (治世33年)ユーフラテス地方より1366人以上
  第 九 回 (治世34年)ワワト、クシュ等より883人(80%は貢納奴隷)
  第 十 回 (治世35年)ナハリン、ワワト、クシュより44人以上
  第十三回 (治世38年)シリア、ヌゲス等より624人以上(84%はシリア人)
  第十四回 (治世39年)シリアより貢納奴隷197人
  第十五回 (治世40年)クシュより黒人系貢納奴隷101人
  第十六回 (治世41年)クシュより21人
  弟十七回 (治世42年)力ディシュ等より986人
       (第三回、四回、十一回、十二回については記録欠遺)

 尚、「トトメス。世年代記」には、戦闘に関係のない捕虜、即ち一般住民も多数奴隷化され、アメン・ラーの神殿でネジェト(=人間家財としてファラオ・神殿に隷属した奴隷)とされたことが記録されている。
 トトメス。世に次いで即位したアメンヘテプ世は有能の誉れ高く、内政に外交に極めて活発な政治活動を行なった。外交における「活発な政治活動」とは、つまりは軍事的征服である。即ち、同王は、「テーベのアメン神殿を捕虜で満たし、様々な衣服や穀物を作らせた」という父王の政策をそのまま受け継ぎ、治世中に幾度かの大規摸なアジア遠征を企てた。治世2年目(前1448年)には、パレスチナの戦闘で「貴族」550人余をはじめとして、その妻子並びにカナーン人2255人以上を奴隷とし、治世7年目及び9年目には、ハリタ、ヌカシェ、ヘブライ人等々を10万3342人も捕虜とした。これらの捕虜は国有奴隷として国有地に集団で割り当てられ、或いは神殿に寄進され、更には高官・貴族・戦功者等に配分されたという。
 トトメス。世・アメンヘテプ世両王の度重なる遠征によってもたらされた財宝と奴隷とを礎として、アメンヘテプ。世の時代には、新王国期でも特に際立って華やかな文化が花開いた。空前の大規模建造物が建ち並び、その壮観は豪奢極まりないものとなった。もしこの時代の遣跡が今日に知られていなかったとしたなら、古代エジプト文明の栄華はもっと過小に評価されることになった筈だ、と述べる美術史家が居るほどである。
 このアメンヘテプ。世時代の奴隷制については、奴隷の賃貸価格や売買価格を伝えるパピルスが現存しており、断片的ながらもかなり具体的な知識を得ることが出来る。その内の或るパピルスの記述に拠ると、或る女奴隷の十日間の賃貸料が銀10シャティ(=約76g)、別な奴隷については、十七日間で42シャティであった、とのことである。また、売買価格については、一人あたま48シャティ(約36.5g)ないしは240シャティ(約182g)であった、との記録がある-17 。これを後年の記録と比べてみると、新王国末期ではシリア人女奴隷=4デペン1ケドト(銀約373g)、女奴隷=銀4デベン、男奴隷=同2デベン、第23王朝期では32人の男女奴隷=15デベン4分の3ケドト、第25王朝期では下エジプト人奴隷一人=2デベン4ケドト等となっており、一般に時代を下るに従って奴隷価格の高騰していることがわかる(18) 。
 アメンヘテプ。世がエジプトにどれほどの数の奴隷をもたらしたかについては、「ヌビア遠征で740人」という記録を伝えるパピルスが遺されているのみである。ただし、彼の治世の有様を伝える絵画・彫刻類の数々は、当時の首都テーべがクレタ商人や黒人兵士、ミタンニ・バビロニアからの朝貢使節団、そしてシリア人奴隷などでごった返していた史上最古の一大コスモポリスであったことを教えているのである。
 ところで、アメンヘテプ。世によるカルナック大神殿をはじめとする大建築事業や、同「世による大宗教改革の断行は、先に述べた様に、新王国の強大な国力を一時衰退させる。そして、この新王国が再び国威を発揚するに至るのは、第19王朝セティ汾「が即位し、続くラアメス世が対ヒッタイト外交に巧みな手腕を発揮して以後のことになる。
 セティ汾「については、先にその勅令を引用する形で少し触れた。彼は、どちらかと言えぱ表向きのみが華やかであったアマルナ時代(アメンヘテプ。世・「世の時代:前1413年‐前1350年)の失地を回復し、レバノン・カディシュ・ヌビア等各地に遠征を企てた。この時多数の奴隷がもたらされたことは確実と言われており、「史上最大・最美」とのふれ込みで今日観光客に一般公開されている彼の王墓は、その奴隷の膨大さを物語る間接的証拠であるとも言われている。ただし、具体的な奴隷数については余りよくわかってはおらず、奴隷の用途・処遇・価格・解放手段等についても今のところ不明な点が多い。

 ヌビア人捕虜を連れ去るアメンへテプ。世

 続くラアメス世は、トトメス。世にはじまった新王国極盛期の最後の頂点に立つ王である。旧約聖書「出エジブト記」に言う“エジプト王”とはこの王のことであろうとされており、奴隷史研究には極めて係わりの深いファラオと言える。彼は67年間も王位にあって約150人の子供を儲け、97才で没した。カルナック宮百柱殿の建設とルクソール寺院の増築とはいずれもこの精力的な王の手になるものであるが、もし今のエジプト政府が同様の事業を行なおうとすれば、その国庫は何年にもわたって破産し続けることになる筈である。更に驚くべきは、今日エジプトに遺る歴史的建造物の半数以上が、実はこのラアメス世の手になるものだ、ということである。彼は歴史上稀に見るナルシストでもあり、自分の姿を形どった石像を各地に建てて回ったが、その内の幾つかは、今日エジプトの観光コースを巡る時に必ずお目にかかることになる筈のものである。
 ラアメス世に係わる巨石遺物が数多く現存している為、また聖書の中に同王の数々の所業が記されている為、その治世にあってはさぞかし奴隷制が猖獗(しょうけつ)を極めたことであろう、との臆測が一部の史家の間では一般化している。そうした事情もあってか、例えばわが国の或る百科事典には、「ラアメス世の時代から奴隷が多数化し、奴隷反乱の記録も出て来る」といった説明が書かれるに至っている。しかし、より正確には、「ラアメス世の時代から多数化した」のではなく、本書で先に見てきた様に、「すでに古王国の時代から相当多数の奴隷が存在していた」というのが史実であろう。同王の時代に「多数化する」のは、実は例えばカディシュの戦い(前1285年)等で捕虜とされたユダヤ人の奴隷なのであり、上の百科事典の記述は、単に聖書の書き手の知識ないしは立場をそのまま無批判に鵜呑みにしたものでしかないのである。
 ともあれ、ラアメス世は当時のアジア列強諸国と戦火を交えて多数のユダヤ人・ヒッタイト人等を奴隷化していた訳であるが、政治史的な観点から見れぱ、前1269年に彼がヒッタイトと不可侵条約を締結していわば相互の奴隷化戦略に終止符を打ったことが、より重要な意味を持って来る。というのは、その平和条約によって、永く敵対関係にあったアジア諸国とエジプトの間の緊張は大幅に緩和され、古代エジプトのみならずオリエント世界全域に計り知れない影響がもたらされたからである。即ち、平和の実現は、ヒッタイトの独占していた製鉄技術の拡散と普及、アッシリアの抬頭、地中海民族の進出、等々を呼び起こし、古代近東世界の旧秩序を一変するに至ったのである。この大動乱の総仕上げを行なうかのように、オリエント全域に諸民族の大移動のうねりが巻き起こり、エジプト第19王朝もヒッタイト王国の滅亡と相前後してその歴史を終えることになる。
 そして第19王朝滅亡の後には、エジプト王室内部に王位争奪の内紛が起こり、セトナクト[前1200年‐前1198年]なる人物がこれを鎮めて第20王朝の開祖となった。このセトナクトを継いだのがラアメス。世[前1198年‐前1166年]であった。
 ラアメス。世は「新王国最後の賢王」と讃えられた名君で、事実、古代エジプト史には同王以後はクレオパトラ[前51年‐前30年]以外に見るべき支配者を挙げることが出来ない。ただし、先にも見た様に、「名君とは即ち暴君」である。その証拠に、この王が「岸辺の砂の如き」多数の奴隷を諸地方の神殿群に献納したことはすでに少しふれておいた。その実数は、治世33年間で少なくとも11万3433人を超えたと言われ、名だたるファラオの中でも群を抜く暴虐ぶりであった。その内訳は、テーベ神殿群に8万6486人、ヘリオポリス神殿群に1万2963人、メンフィス神殿群に3079人、その他の地方神殿群に5686人となっている。即ち、テーベ神殿群が奴隷保有の80%を占めた、ということになる。外征では前1193年及び前1187年の対リビア戦が有名で、治世11年目に行なわれた後者87年の戦争では、敵兵2052人を捕虜となし、2175人のヌビア人・シリア人を殺害した、との記録が残されている。戦功は、獲得した敵の手首の数をもって評価されたことが、当時のレリーフから窺える(下図参照)。
 王は多数の戦争捕虜をナイル河口域のデルタ地帯に強制的に入植させ、下層労働民として各種の産業に従事させた。中でも多かったのはやはり神殿に献納された奴隷であったが、神殿群に奴隷を奉納した時に書かれた当時の「奴隷寄進表」には、奴隷の総称としては“フム(女奴隷はフムト)”なる呼称が用いられ、これら奴隷には王の烙印が捺されて牛と交換されたり売買されたりしていた、と記されてあるという。フムは妻子もまた奴隷となるのが習わしであったが、一般人への転化も比較的容易ではあった様である。尚、神殿奴隷は概して個人所有の奴隷よりも苛酷に取り扱われ、“ナーギルム”なる役人の監視下に置かれていた。

 今日、テーベにあるラアメス。世の神殿の前に立つと、その岸壁に彫られた象形文字は一文字が人の身の丈ほどもあり、余りもの豪壮なその造りに目をみはらされるばかりであるが、その豪奢は、やはり近隣民族や貧困から転落した奴隷の犠牲と表裏一体のものであった。ラアメス。世が、自ら奴隷とした侍妾と宮廷官吏との結託によって暗殺されたというハリス・パピルスの記述は、この「名うての暴君」にふさわしい最期を与えていると言えるかも知れない。同王の暗殺以後は群雄割拠の無政府状態が続き、古代エジプトの栄華は前1200年頃から急激な拡がりを見せはじめていたサハラ砂漢の砂の下に、すべて埋もれて行くことになる。



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