| 古代エジプトの奴隷制
__Slavery in Ancient Egypt |
| (Sorry, Japanese language only) Back to Studies on Slavery (English Page) 奴隷制度史の研究に戻る (Japanese Page) 吉村作治のエジプト考古学講座へ行く A Study on Ancient Egypt by Professor YOSHIMURA Sakuji (Waseda Univ., Tokyo) 古代エジプトの奴隷制石と宗教の交響曲雄弁家キケロによって「歴史の父」と讃えられたヘロドトスは、後世に幾つもの名言を残している。その中でも、「エジプトはナイルの賜(たまもの)」という名ゼリフは、今日最も広く知られたものと言うことが出来るだろう。−−まさにその通り、ナイル河なくしてエジプトはなく、エジプト人とは「ナイルの水を飲む者」のことである。そのナイル。全長670Hに及ぶ世界最長のこの大河は、毎年夏季にゆるやかな大氾濫をよび起こし、流域一帯を稀有の沃土に変える。それゆえ、溜池をはじめとする各種の適度な灌漑作業を怠らなければこの一帯は年2回、収穫の可能な大農業地帯となる(1) 。 旧約聖書「創世記」にもエジプトは「古代世界の穀倉である」と記されてあり、古代ローマの著述家もまた、この地を「地中海の穀倉」と呼んでいた。チグリス・ユーフラテス両河の不定期な氾濫がメソポタミアの人びとに「神の罰」と把えられたのに対し、定期氾濫によって沃土をもたらすナイルの方は「神の恵み」として受けとめられた。 古代エジプト人はすでに紀元前3500年以前にこのナイル流域河谷に40余の州(ノモス)を築き上げ、のちに「石と宗教の交響曲」と謳われる一大文明圏をつくり上げはじめていた。ノモスの増加と拡大は自ずと人口の激増を伴い、より新たな耕地の開拓と灌漑とがくり返された。そして、本来、「人間をとり巻く自然環境の社会的な制御一一それを節約するとか、大規摸に人工的な手を加えるとか、馴らすとかする必要一一は、産業史の上では最も決定的な役割を演じる」ものである。それゆえ、「ナイル河の水量増減の周期を算定する必要は、エジプトの天文学を生み出し、また、それと一緒に、農業の指導者としての僧侶身分の支配を生み出した」(2) 。 そしてこの僧侶支配の対極に、奴隷という被支配層が生み出されていくこととなった。 僧侶支配の最上層部には王(ファラオ)が君臨して、ナイル流域の大部分の社会を統治した。「大きな家」の意味を持つファラオは「神の子」として祭政未分化の神権政治を行い、神性ある支配者、即ち「神王」として膨大な官僚機構の頂点に立った(3) 。ピラミッド、スフィンクスの物語と共に、このファラオについては早くからわが国で研究が進んでおり、西洋古代史の中でも最もポピユラーな対象となっている筈である。ただし、厳密な学問研究のレヴェルでは、必ずしも万人共通のファラオ像ないし古代エジプト史像が得られている訳ではない。それは例えぱ、ファラオが君臨した王朝の時代区分の多様さひとつを例にとってみても頷けることである。これは、古代エジプト文明が実に3000年以上の永きにわたって持続した、という一事に基づく当然と言えぱ当然の帰結であるが、学者によっては百年、二百年程度の年代のズレも決して稀なことではないという点については、予め心得ておいた方が無難であろう。本書では、差し当りカイロ博物館発行のパンフレットの時代区分に従い、主に古王国・中王国・新王国の三時代の奴隷制の展開について概観しておく。
【古王国】エジプトと言えぱまず頭に思い浮かぶのはピラミッドであるが、このピラミッドの建設ラッシユは、実は紀元前2600年から前2100年にかけての500年間、即ち古王国の時代に集中して起こったものである。その為、多くの史家はこの古王国時代を「ピラミッド時代」とも呼んでいる。今でも、古代エジプトと言えば暴虐無慈悲なファラオの圧政の下で鎖につながれた多数の奴隷がピラミッド建設に死ぬまで従事させられた、といった想像を持つ人が一般には少なくないものと思われるが、しかしそれだけでは知識は正確とはいえず、また何ら具体的ではない。事実は、ピラミッドは奴隷労働の産物というよりは、ナイル増水期四ヵ月の農閑期のみの集約的強制労働の産物であり、一定期間にわたって国家が総動貝した全人民による強制的な労役奉仕、即ち季節的な夫役(ぶやく)の産物であった。最近の研究では、「強制労働」とは言っても、一種神聖な「お祭り的な賑わい」の雰囲気さえピラミッド建設には伴った、とも言われている。その真偽はともかく、いずれにしてもナイル河岸沿いの耕作地は毎年4月から7月に冠水期を迎え、これによってエジプト社会は農閑期に入る。この農閑期に古代エジプト国家は、それまでに徴収し蓄えたパン・ピール・大根・タマネギ・ニンニク、そして衣服、更には下剤といった諸物資を支給することによって奴隷を含む全人民の労働の供給を受け、巨大極まりない王墓、ピラミッドを築かせた訳である。一説によれぱファラオから人民に支給された衣服や食料の総額は、今日の金額にして数十億円から数百億円にも達したという(4) 。 ところで、紀元前150年頃、ビザンチウムの数学者フィロンは「世界の七不思議」として(1)エジプト・ギザの大ピラミッド群(2)バビロンの空中庭園(3)オリンピアのゼウス神像(4)ロードス島の巨人像(5)ハリカルナッソス(=現トルコ領ボドルム港.ヘロドトスの生地)のマウソロス霊廟(6)エフェソスのアルテミス神殿(7)アレクサンドリアの大灯台 の七つの建造物を挙げた。これらの内、今に遺るのは実はギサのピラミッド群のみである。その内の大部分のものは、主に第4王朝期(前2600年〜前2480年)に造られた。中でも最大のクフ王のピラミツドの内室には、ギザから1000Hも離れたアスワン産の上質花崗岩が用いられ、内室以外の本体にはナイル東岸から切り出された大量の石灰岩が使われた。一個の岩石の長さには色々なものがあったが、高さは1メートル、幅は2メートル、重さは2.5トンというのが平均であった。そうした岩石が実に250万個、高さ150メートルに積み上げられ、ピラミッドの総重量は625万トンに及んだ。現在、もしこれだけの岩石を運ぶとすれぱ、18トン積みトラックが青森から鹿児鳥までスキ間なく並ぶことになるが、この膨大な材石を運んだのは、一人当たり688キロカロリーの仕事を行う奴隷・隷農であり、油を塗りたくった桁(けた)(横木)や捲揚器であった。即ち、もし当時の奴隷たちが今日のサラリーマンと同様に一人平均100ワット程度の仕事率を持つものと仮定し、その奴隷が8時間ぶっ通しで働いたとすれぱ、0.8キロワット・時、つまりは688キロカロリーの仕事を一日に行なったことになる。この奴隷が計10万人、20年間働いたとすれば、総エネルギ一は5184億キロジユール。もし石油の機械エネルギーへの変換効率を3分の1と見れぱ、ピラミッドの建殻には実に41300キロリットル、即ち30リッター容量のプルドーザーが延べ100万台以上必要だった、ということになるのである(5) 。 以上のような史上最大のピラミッドの建造者クフ王は、後世においては奴隷をこき使う暴君の代表として言い伝えられることになった。その生涯や業績については未だほとんど何も具体的に知られてはいないにも係わらず、「巨大ピラミッドを建造させた王(ファラオ)とは奴隷をムチ打って使役する残虐な支配者だった」という一種の神話が、特に中世以後の聖書の記述の短絡的な解釈などと共に広まり、19世紀の一直線的な進歩史観の中で定着してしまったのである。エジプトのファラオによる人民の支配が、世界の政治史の中で特別きわ立ってDespotic なものであったかどうかは、今後の更に厳密で詳細な比較研究の課題だと考えられねぱなるまい。 それはともかく、クフ王時代の奴隷制の話題に続けて、その先王スネフルと奴隷制との係わりに目を向けてみることにしよう。何故なら、スネフルは「暴君」クフとは全く対照的に、「心優しき名君」の評価を得て広く民衆からも敬愛されたという類稀なファラオだったからである。 スネフル王は第4王朝の始祖で、在位は紀元前の2600年頃。多くの俗文学・智慧文学の中で「希代の賢王」と謳われ、500年以上も経った中王国期にその葬祭殿がわざわざ再建されるほどの大名君であった(6) 。治世24年間の内に近隣の諸民族を順次鎮圧し、当時最も貴重であったレバノン杉の貿易を独占、近東及び北アフリカ各地に鉱山を開削して武具・食器・日用品の交易を統轄したとされる。資料に残された「支配者の人物像」などというものについては、相当な誇張と創作とを間引いて考えねばならないのが常識であるが、或る資料は同王を評し「容姿端麗にして物腰は低く、しかも王としての才覚と威厳とを備え持っていた理想的な名君であった」とも伝えている。 しかしながら、最大級の讃辞をもって形容され続けたこの「大名君」の実像は、征服され奴隷となった近隣諸民族の境遇を考え合わせるならぱ、一面においてやはり「暴君」の性格を持ったと言わねばならないものである。概して古王国時代の奴隷制については余り豊富な資料は見つかってはいないのであるが、スネフル治世下での大規模な奴隷取引の展開を立証する碑文が出土しており、それが同王の「暴君」としての一面を立証している。それに拠ると、戦争と征服と掠奪とによって彼が捕えた奴隷は膨大な数にのぼり、例えば治世半ばにはヌビア人7000人とウシ20万頭、治世末年にはリビユア人1万1000人とウシ1万3000頭がこの「名君」の手によって略取された、という。当時のノモスの規模を鑑みるならば、奴隷化される側の民族にとってはスネフルの遠征活動は、潰滅的といって良いダメージをもたらしていた筈である。捕えられ奴隷化された者たちは、傭兵・警察軍・保安隊といったポストでおもに用いられ、後世とは異なって、主産業たる農業にはほとんど用いられなかった様であるが、シリアの銅山やヌビアの金山での苛酷な鉱山採掘作業には集団で大量に徴用された(7) 。「名君」とは「暴君」の別名であり古代エジプトの黄金文明はすでに古王国の時代から奴隷制と共に歩んだといえる。
【中王国】古王国末期から動乱・下剋上の第汳間期を経て神王(ファラオ)の絶対的権力が一時低下する一方で、地方の州侯たちは自らの支持基盤を確保すべく「小人(ネジェス)」と呼ぱれた都市庶民層を保護し、中央権力からの自立の度合いを強めていく。その過程でエジプト社会は、政治・経済・宗教・文学等のあらゆる分野にわたって市民化・世俗化し、いわゆる「庶民国家」としての中王国の時代が訪れるのである。都は北方デルタ近くのメンフィスからナイル南方のテーベへと遷(うつ)され、いわゆる「王陵の谷」に新たな文化圏が華ひらいていった。政治面での世俗化は、庶民層の官吏登用への道を開き、人びとはある程度身分に係わりなく文字を習い、ホワイトカラーとしての技術や知識を身につける機会を得るようになった。第汳間期最末期、第10王朝期に書かれた「メリカラー王への教訓」には、「貴族の子弟と素姓卑しき者とを分け隔てしてはならない。能力によってこそ、人々を取り立ててやるべきである」との一節が見られる(8) 。古代エジプトにも、「冠位十二階の制」を定めた聖徳太子や、「この国(独立直後のアメリカ)では人々は家柄や身分によってではなくその能カによってこそ評価される」と宣言したフランクリンの如き政治家が居た訳である。もっとも、通常はファラオ時代のエジプトではシュメールにおけると同様、「系図なき者は卑しき奴隷」との通念が根強く、基本的には奴隷はやはり社会の最底辺に止め置かれるべき階層として、例えぱ氏姓を持つことが厳しく禁じられていた(9)。 中王国も後半期に入って、第12王朝期には「ドゥアケティの教訓」が書かれた。これはいわぱ当時の官吏養成の手引書で、書記以外のあらゆる職業の辛さ、卑賤さを強調することによって、如何に官吏の職が値打ちが高いかを説いたものである。こうした手引書が書かれた背景には、中王国という、古王国に代わる新たな統一王国の行政組織での人材確保といった、国家の側の要請があったのであろう。 ここで間題になるのは、上の「ドゥアケティの教訓」(=別名「職業の風刺」として知られる)に描かれた奴隷的労働の実体ないしは実情の間題である。無論、「奴隷的労働」とは言っても、この教訓の執筆者の観点からすれぱ書記以外の職業は全てそれに当てはまるとされており、あたかも古代ギリシアの哲人たちがあらゆる技術職・肉体的労働を蔑視したのと同種の頭脳労働者の特権意識を思い起こさざるを得ない。従って、教訓の内容にはかなりの誇張や思い込みがある、と考えておかねぱならない。とは言え、次に引用する一節に見られるリアルな描写などは、やはり専制的な国家権力によって徴用され夫役を課された最下層民の嘆きを今日に伝えたものとみて差し支えはないだろう。
農夫はホロホロ鳥以上に嘆き悲しみ、その泣き声はカラスよりも大きい。指はいっぱいの肉刺(マメ)で膿み爛(ただ)れてしまっているからだ。もしデルタに登録され、そこに追いやられたとしたら、もうおしまいだ。干拓地に行って苦しむことになる。何故なら、そこでの賦役は三倍とされ、しかも報酬は病気でしかないからだ。そこから出て来たとしても、もうくたくたになって家に帰り着くことになる。重い租税が彼をこなごなにしてしまっているからだ。
上に先に見たように、中王国第12王朝期には、新統一国家の行政基盤を整える為に広く庶民層からも人材を掘り起こす方策が採られはじめた。しかし、やはりそれでも人材の不足は十分には補えなかった様であり、中王国末期から第中間期にかけて主に特殊技能の所持者の獲得をめざして、かなり活発な奴隷貿易の展開が見られる様になった(11) 。そしてその後、異民族ヒクソスの支配を受けて以後成立する新王国の時代に入って、エジプトは積極的な対外進出策を採用するに至り、征服は征服を生んで古代エジプトの奴隷制は最盛期を迎えるのである。
【新王国】新王国時代は、エジプトが広くオリエント全域にその権勢を示すに至る時代であり、「帝国時代」とも呼ぱれる極盛期である。即ち、第18王朝の始祖トトメス汾「に始まったアジア・アフリカ・地中海周辺への帝国主義的拡張政策は、以後約300年の永きに及び、第19王朝第四代のラアメス世[在位:前1304〜1237、カルナック百柱殿の建設者として有名]がヒッタイトと和議を結ぶまで続くことになる。そして、この時期には至る処から途方もない財宝がエジプトに流れ込み、今に遺る巨大な神殿群の大半が造り上げられることになるのである。17回に及ぶアジア遠征によってエジプト史上に最大の版図をもたらしたトトメス。世[前1504〜1450]前代未聞の大建築フィーバーや徹底的宗教改革によって先王の財産を食い潰していったアメンヘテプ。世並びに「世(イクナトン)、同「世の後継者となった少年王ツタンカーメン[前1364〜61]、史上最大・最美と言われる王墓を造り上げたセティ汾「、−これらの諸王の栄華の有様については、我が国でもかなり広く知られていることであろう(12) 。国が富み栄え、その権力中枢を少数の「小人」たちが牛耳った場合、政治の腐敗は堕落した金権政治、つまりは賄賂の横行に帰着する。専制政治の否定された今日においては、そうした不正が行われた場合、良識ある当事者は良心に従って姿勢を正す機会を与えられ、また厳正な裁判や健全な世論によって腐敗を取り除く努カが払われ得ることであろうが、しかし、古代エジプトにあっては、公事に係わる官吏の不正に対しては、直ちに王命によって厳罰処分の与えられるのが通例であった。特に賄賂に対する処罰は、その授受を噂されるだけで「資格剥奪・追放・強制労働」という厳しいものであった。政治は「奉り事」であり、政治を汚すことは神を汚すこととみなされたかあである。例えぱ、上に名を挙げた第19王朝セティ汾「の或る勅例には、次のように書かれている。 賄賂を要求すると人々に言われている神官はその地位より迫放し、農夫(奴隷)とせよ。....... 神宮に賄賂を与えると人々に言われている運搬人・神父・下級神官・典礼司祭はその地位より追放し、農夫とせよ。 一般人に関しては、税金の未納・怠業・逃亡等について上と同様な刑罰が与えられ、「人身配分局」の管理の下に強制労働が課された。個人の所有品を盗み取った場合は盗品を返却の上、その品の2〜3倍の賠償を支払い、神殿の所有品については百叩きと百倍の賠償が課された。古代エジプトの生産を基本的に支えた家畜の窃盗に対しては更に重い罰が与えられ、個人家畜の窃盗には両手の切断、神殿家畜の窃盗には耳・鼻を削ぎ奴隷化するという残酷な刑が課されたという。最大のタプーは祭祀具の盗みで、これに対しては即刻死罪が与えられた。官吏が当時の国権の最高機関、即ち神殿に係わる犯罪をなした場合の罪も非常に重く、その妻子までもが奴隷化された。 アビユドスのセティ汾「葬察殿の境界を移し、神殿に害をなす官吏は、この神殿領の管理者であると耕作者であると代官であるとを問わず、鼻と耳を削ぎ、同葬祭殿の農夫とせよ。.......アビュドスのセティ汾「葬察殿の家畜を盗むのを見つけられた官吏は、鼻と耳を削いでこの神殿の農夫とし、その妻子は、この神殿の長の奴隷とせよ。....... アビュドスのセティ汾「葬察殿の男が訴えをしに市の法廷の構成員のもとにやって来たにも係わらず、これを聞かず、その言を受けつけない者は、百叩きに処し、その地位から追放し、この神殿の農夫とせよ(13) 。
金権政治、腐敗政治の陰で苦しんだのは、一般庶民である。
では、「岸辺の砂の如き多数の奴隷」とは、具体的にはどの程度の実数を示すものであったのか。以下、幾つかの事例を挙げておかねばならないだろう。 まずは第18王朝。ここでは、トトメス。世、アメンヘテプ世、アメンヘテプ。世の時代について、幾分豊富な資料が知られている。トトメス。世は、先に述べたように、17回に及ぶ対外遠征によって勢力版図を拡げ、シリア・フェニキア・パレスチナ・ヌビア等を包含する大帝国を築き上げたファラオで、「古代エジプトのナポレオン」と称される人物である。その年代記に拠れぱ、第一回アジア遠征のメギドの戦いで340人、カデシュ攻城戦で2503人をはじめとして、第八回までの遠征で7645人、総計8千数百人の捕虜を奴隷化したと言われている。貢納奴隷や投降者を含めれば全総計は1万数千名に及ぶ、との推計もある。王の治世の永さに鑑みてみれば意外に少数の数ではあるが、以後の遠征や奴隷貿易を助長し促進したという点でも、このトトメス。世の征服事業には大きな歴史的意義があったと言って良いであろう。17回の遠征の具体的な内容については、かなり詳しく明らかにされており、以下にとりまとめておくことにしたい(16) 。
第 一 回 (治世23年)メギド、レバノンから2843人
尚、「トトメス。世年代記」には、戦闘に関係のない捕虜、即ち一般住民も多数奴隷化され、アメン・ラーの神殿でネジェト(=人間家財としてファラオ・神殿に隷属した奴隷)とされたことが記録されている。
ヌビア人捕虜を連れ去るアメンへテプ。世
続くラアメス世は、トトメス。世にはじまった新王国極盛期の最後の頂点に立つ王である。旧約聖書「出エジブト記」に言う“エジプト王”とはこの王のことであろうとされており、奴隷史研究には極めて係わりの深いファラオと言える。彼は67年間も王位にあって約150人の子供を儲け、97才で没した。カルナック宮百柱殿の建設とルクソール寺院の増築とはいずれもこの精力的な王の手になるものであるが、もし今のエジプト政府が同様の事業を行なおうとすれば、その国庫は何年にもわたって破産し続けることになる筈である。更に驚くべきは、今日エジプトに遺る歴史的建造物の半数以上が、実はこのラアメス世の手になるものだ、ということである。彼は歴史上稀に見るナルシストでもあり、自分の姿を形どった石像を各地に建てて回ったが、その内の幾つかは、今日エジプトの観光コースを巡る時に必ずお目にかかることになる筈のものである。
今日、テーベにあるラアメス。世の神殿の前に立つと、その岸壁に彫られた象形文字は一文字が人の身の丈ほどもあり、余りもの豪壮なその造りに目をみはらされるばかりであるが、その豪奢は、やはり近隣民族や貧困から転落した奴隷の犠牲と表裏一体のものであった。ラアメス。世が、自ら奴隷とした侍妾と宮廷官吏との結託によって暗殺されたというハリス・パピルスの記述は、この「名うての暴君」にふさわしい最期を与えていると言えるかも知れない。同王の暗殺以後は群雄割拠の無政府状態が続き、古代エジプトの栄華は前1200年頃から急激な拡がりを見せはじめていたサハラ砂漢の砂の下に、すべて埋もれて行くことになる。 This page : Originally written by SHIMOYAMA Akira '96.11.30. Html editor : 佐藤賢一郎 SATOH Ken-ichiro E-mail shimosan@daishodai.ac.jp |

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