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 古代バビロニアの奴隷制  Slavery in Ancient Babylonia
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「正義の王」ハンムラピ


 イエス・キリストが誕生したとされるのが、今から二千年前。それから更に二千年時代を遡ると、かつてシュメールの故地であった地域には「イ シン=ラルサ時代」と呼ばれる時代が訪れ、次いでそこにバビロン第一王朝が成立する。これがいわゆる「古バビロニア時代」である。この時代に、古代世界で 最も偉大な君主とされるひとりの卓抜な王が現われた。バビロン第一王朝第六代の英王ハンムラピ[在位:前1792年‐前1750年(1)]である。彼の 43年に及ぶ永い治世の間に、キシュからペルシャ湾へと大運河網が築かれ、水路は四通八達して産業は大いに栄えた。エラム、マリ、そしてラルサ等をはじめ とする四方の都市国家も相次いで王の支配下に入り、現バグダードの南方90kmに位置するバビロン(「バベル」=「神の門」の意)は、古代オリエントの政 治・経済・文化の中心センターとして繁栄を極めた。この英王は、メソポタミアに統一と平和とをもたらす為にじつに巧みで効カのある外交・軍事政策を実行 し、そしてその一方で、「強き者が弱き者を圧迫せぬよう、悩ある者に光を与えるよう」、この時代のものとしては他に類のない優れた内容の法典を制定した。同態(同害)復讐法(レックス・タリオニス)の元祖としてあまねく知られる、ハンムラピ法がそれである。
 この法典は、その制定理念の高潔さにふさわしく、「ハンムラピの正義の法」として古代の諸法典の模範となり、以後一千年間にわたって法学者の基本研究テキストにされ続けた。282 条に及ぶ条文は、幾何学文様状の美しい装飾的な楔型文字をもって一本の閃緑岩に刻まれたが、この一本岩の見事な飾塔は、今日パリのルーブル美術館に置かれ ている。高さは2.25m、条文は44欄300行にわたって秩序正しく刻み込まれ、法典碑の末尾は自らを讃える王の次のような格調高い文言で結ばれてい る。

 「
朕はハンムラピ、完(まった)き王。民の為に幸い溢れる土地を捜し、その重き苦悩を取り除き、彼らの頭上に光をもたらした。・・・朕はすべての民を心安らかに住まわせ、
  彼らを脅かす敵が襲いかかるのを決して許しはしなかった。

  我が良き蔭は国土をあまねく覆い、我が智恵はその民を守る。強き者が弱き者を圧迫せぬよう、孤児や寡婦に正義がなされるよう、・・・正しき法が定められ、正しき判決が
  下されるよう、そして圧迫されている者に正義が施されるよう、朕は自ら至高の言葉を『正義の王』と名付けられた我が像と共に、この石碑に刻みつけた」(2)。


「正義の法」の中の奴隷

Hammurapi.jpg  ハンムラピの法典は、大きくは七つの内容から構成されている。第一は裁判・判決関係の項目、第二は財産関係の法規であり、第三は商業・金融関係の法規、第 四は家族法並びに傷害に関する民法的・刑法的取り決めである。第五は特定の職業集団に対する規制、第六としては、価格・賃金関係の法規が挙げられる。そし て最後の第七番目が、「奴隷法」である。尤も、条文を細かく辿っていくならば、「奴隷法」と呼び得る規定は法典の随所に散在していることがわかる。奴隷の 行政上の位置づけは、当時の大きな社会間題であったことが窺える。以下では、ハンムラピの「正義の法」の中に見られる奴隷関係の法規定を、一応網羅してみ たい(3)。
 まずは第7条。そこには、奴隷は自ら売買活動を行ない、契約を取り結ぶ主体となり得ていたことを窺わせる規定がある。第15〜20条は奴隷 の逃亡に関するもので、「宮殿または自由民の所有になる男女の奴隷が市門から逃げ去るのを助けたる者は死罪」という厳しい内容ではじまる。逃亡奴隷を隠匿 した者も同罪(第16条)である。第15〜20条の規定によって、奴隷は宮殿に据え付けの「奴隷登録台帳」に記載され、いわぱ国家管理の下に置かれていた ことがわかる(特に第18条)。尚、15条とは逆に、第17条では「逃亡奴隷を捕えて元の所有者に引き渡した者には、所有者は銀2シェケルを支払うべし」 と定められている。(1シェケル=銀半オンス=2.5〜5ドル。60シェケルが1ミナ、60ミナが1タラントで、後出の1タラント=約1万〜2万ドルとい うことになる。)逃亡奴隷の引き渡しに賞金が課されたということは、バビロニアにおいては案外奴隷は少数で稀少価値を持つものであったということの、ひと つの傍証でもあると見られている。
  第26条以下第87条までは兵士に関する規定や農地についての規定、それに欠損部などで、奴隷に係わる規定は見られない。88〜126条までが商法的な規定、続く127条〜194条が家族法(=全体の4分の1を占める)で、ここに奴隷に関する多くの規定がある。
 まずは113条〜119条。これは債務による人身抵当を述べたもので、「もし賃借人が自己の義務を履行し得ない時には、負債牢に投じられ、 且つ債権者の家で奴隷として奉仕しなければならない」(113条以下)。ただし、借金の為に妻子を売り奉公に出す場合は、この妻子は買取人即ち主人の家で 三年間だけ働き、第四年目には解放されて自由を与えられる」(117条)。この117条の規定は、後に旧約聖書の「レビ記」等に見られる“安息の年”“ヨ ベルの年”の設定による奴隷解放の規定(後述)の原型と言えるものである。また、この117条からは、パビロニアでは夫の家父長的権威が絶大であったこ と、そして奴隷は終身とは限らずテンポラリーな者も多かったことが窺える。尤も、117条を含めて113条以下の規定を設けた第一の狙いは、債権=債務に 関する細かな規定を整備することで無際限な奴隷化の進展を健かなりとも抑制するところにあった、とも言われている。
 家族法にあっては、129条にまず「奴隷」という言葉が現われる。即ち、通常は「姦通を行なった妻は水死の刑」と定まっていたのであるが、 「もしも主人たる夫がその妻の命乞いをすれば、王も自分の奴隷(姦通を行なった者)を許す」という表記が同条に見られるのである。通説的には、「概して女 性の地位は低く、直接配偶者による人格的支配を受けると共に間接的には共同体の長たる王の所有物とみなされていたことが窺える」と言われているが、こうし た特徴を分析するに当たっては、そもそも「所有」の概念自体が「神=王=共同体」という観念と常に一体であっことを念頭に置いておく必要がある。「地位は 低く、夫にも王にも隷属していた」とは言っても、ハンムラピ法の条文を細かく見てみれば、女性は法的行為の主体となる権利を保有し、夫の死後もその権威を 引き継いだり自己の意志で再婚することもあったことがわかるのである(4)。
 144〜147条までの四ケ条は、妾としての女奴隷に関する規定であるが、一般的に言って、蓄妾の習慣が拡がると相続問題が複雑化する。そこで、162条以下には相続についての細かな規定が設けられることになった。興 味あることに、その内の第170条は、見方によっては今日のわが国の民法(900条・第4)よりも民主的な内容を示している、とも言うことが出来るもので ある(5)。と言うのも、日本の 現行の民法が、「嫡出でない直系卑属の相続分は、嫡出である直系卑属の相続分の二分の一」として正妻以外の子供の人権を差別的に扱っているのに対し、 3700年 前の「正義の法」は、“嫡出でない直系卑属”の人格を嫡出子と平等に認め、「父親の認知がありさえすれば、たとえ妾腹の子供であっても実子と財産を均分す る」と規定しているからである。「一もし或る者の配偶者が彼の為に子供を産み、さらに彼の奴隷も彼の為に子供を産んだ場台一父たる主人が、奴隷が産んだ子 に対して『お前たちもまた私の子である』と言い、配偶者の子に彼らを数えたならば、父の死後には、配偶者の子供と奴隷の子供とは財産を平等に分割せよ」 (170条)。認知のない場合には当然相続権も与えられないものとされたが、しかしその場合、妾腹の子供は母と共に解放され、財産の代わりに自由民の資格 を得ることとなった(171条)。ただし、時代を下って新バビロニアの時代に至ると、正妻でない女性は奴隷の地位に留まり、また主人の死後には奴隷として 売られてしまうことが多くなった(6)。
 175条とそれに続く176条とには奴隷と自由民との結婚を認める規定があり、バビロニアの奴隷は一応は家族を持つ機会も与えられていた。 尤も、奴隷同志の結婚は全く認められず、この規程はむしろ配偶者のない白由民の女性の結婚対策として定められたものとも考えられている(7)。
 古バビロニアでは妾と共に養子も多く、これに関する諸規定にも奴隷が度々係わっている。即ち、養子は義父母の方から養子関係を清算しようと した場合には、その義父母の家を追放されるだけで済んだのであるが、自分の方から義父母の家を去りたいと申し出た場合には、自由民の権利を剥奪されて奴隷 化されたのである(191条〜193条)。オリエントの家父長的権威の絶対性は、こうした規定の中に最も象徴的に現われていると言えよう(8)。
 196条〜227条には傷害に対する刑罰規定があり、そこに「目には目を」として人口に膾炙(かいしゃ)している同害報復主義がいよいよ登場する。
 「目には目を」という返報主義それ自体は、別段バビロニアにだけ特有のものではない。メリメが小説『コロンバ』で伝えるコルシカ島民の血の 復讐の習わし、つまりはマフィアの論理や、武士の子は命に代えても父の仇を討つべしとする武士道精神にも、この返報主義は現われているものだからである。 この主義が今日ではまずハンムラピの法と結び付けて考えられるのは、ちょうど『ギルガメッシュ叙事詩』の洪水伝説の発見と同等な事情があったからに外(ほ か)ならない。つまり、旧約聖書「レビ記」(24章19節)や「出エジプト記」(21章)、それに『コーラン』によって広く知られていたこの主義の原型 が、実はイエス・キリストの時代から1800年も歴史を遡った時期に既に書かれていたという事実が、聖書だけが最古にして普遍の真理の書物と信じていた人 々を驚かせたということなのである。それはともかく、次の十数ケ条の条文を読み比べてみるだけでも、一概に「目には目を」とは言っても、身分によって様々 に異なった処罰・報復方法のあったことが窺え、「目には死を」と言った方が適切な場合も多かったことがわかる。奴隷の存在を当然の前提とするバビロニアの「正義の法」では、法の下の平等は保証されてはいなかったのである。

 196条 「もし自由民が他の自由民の目を傷つけたならぱ、人々はその加害者の目を傷つけよ」

 197条 「もし自由民が他の自由民の骨を折ったならば、人々はその加害者の骨を折れ」

 198条 「もし下級自由民の目を潰し、或いはその骨を折ったならば、銀1ミナを支払え」

 199条 「もし他人の奴隷の目を潰し、或いはその骨を折ったならば、銀2分の1ミナを支払え」

 200条 「もし自由民の歯を打ち落としたならば、その加害者も歯を折られるべし」

 201条 「下級自由民の歯を打ち落とした場台には、銀1ミナを支払え」

 202条 「自分より身分の高い者の頬を打てば、牛の鞭によって公衆の面前で60回打たれる」

 203条 「同身分の者の頬を打った場合には、銀1ミナを支払え」

 205条 「奴隷が自由民の頬を打った場合には、耳を切り取られる」

 215条 「外科医が上級自由民の重傷を癒して命を助け、或いは目の腫物を癒した場合には、10シェケルが支払われる」

 216条 「下級自由民の場合、前条の半額を外科医は受け取る」

 217条 「奴隷の場合には、奴隷の主人が外科医に2シェケルを支払う」

 218条 「もし外科医が治療に失敗し、上級自由民を死亡させた場合には、外科医は指を切られる」

 219条 「それが奴隷の場合、外科医は同価の奴隷で償うべし」

 219条以下にはしばらく奴隷への言及がなく、226条・227条に至って、「奴隷の目印を消したる者は死罪」との規定が出てくる。これ は、奴隷の逃亡幇助(ほうじょ)と同罪とみなされたのである。尚、この時代の奴隷は、その目印として前額を剃り、腕に所有者の名前ないしは紋を刺青し、そ して奴隷票を持ち歩いていたと言われる(9)。
 もし誰かが他人の奴隷を死亡させた場合には219条に準ずるものとされ、同価の奴隷をもって補償することが要求された(231条)。これ は、奴隷に関する損害が、その奴隷の所有者とも不可分であるとする点で、116・199・213・214・219・259の各条に通ずる性格の規定であ る。全文282条の内の最後の五箇条は、いわゆる本来的な意味での奴隷法となっている。この内、278・279の二箇条は奴隷の取り戻しについて触れ、 289条以下は外国奴隷の購入について規定している。そして、次の第282条の条文が、法典本文の末文である。

「もし奴隷がその主人に向かって『汝は我が主人ではない』と言った様な場合には、主人はこの奴隷に対して、彼が奴隷であるということを証明せよ。そして、その片耳を切り落とすが良い。」

 ところで、ここでハンムラピ法典の歴史上の性格・特徴を、その時代背景の中で考えてみたい。
 もとより、古代バビロニアの社会の中に奴隷と自由民の二階層があったことは、今までの検討を顧みるまでもないことであるが、一般に、男奴隷 はワルドゥム、女奴隷はアムトゥムと呼ばれていた(10)。一方、自由民は上層の者と下層の者とに分かれ、前者がアウェールム、後者はムシユケーヌムであ る。奴隷の総数は全体としてはかなりの数にのぼっていた様であるが、一人の主人の下にはせいぜい2〜5人、多くても十数人というのが通例で、先に見たよう に、やはり本来の意味での大規摸奴隷制の展開はほとんど見られない。従って、奴隷に対して温情的でマイルドな処遇の与えられる余地も十分残されていた訳 で、「強き者が弱き者を圧追せぬよう・・・」という高潔な編纂主旨や、人民に対する一定度の経済的保護という驚くほど近代的な規定(例えば第21〜24 条、第103条)の存在にも合点が行くのである。ただし、全面的な個人の人格解放の前提となる政治的な保護の姿勢や思想・信仰上の自由などは、無論全く存 在した形跡すら無い。特に支配者が「神と一体」であるとする観念は古代国家の絶対条件で、その条件から派生する様々な人権否定が当然のものとされていた。
 しかし、以上のような時代的制約にも係わらず、ハンムラピ法が持った文化史的・法制史的な意義は決して見落とされるべきではない。何故なら この「正義の法」は、上に見て来た内容からも明らかなように、刑法・商法・家族法・税法等々に連なる様々な規定をそれなりに体系化し、また奴隷法の豊富な 内容を示すことによって古代共同体の社会構成の在り方やその絹纂者の理念の在り方を今日に知らせる比類なき証言となっているからである。勿論、この法に先 行する時代にも、例えばウル第三王朝期にはウル・ナンム法典、イシン・ラルサ期にはリピト・イシュタル法典といった諸法典が既に存在していたことが今日で は知られており、かつて喧伝されていたように「ハンムラピ法が史上最古の法典」などと言える訳ではない。しかし、先行するどの法典にも、ハンムラピ法典ほ ど豊富で体系的な内容を盛り込んだものは、今のところ知られてはいない。その上何よりも、古代オリエントにおいて真に統一的な中央集権的専制国家を完成さ せたのはバビロン第一王朝が最初であるとされており、全国的法典として諸都市国家間をカヴァーし得たのは、ハンムラピの「正義の法」が嚆矢であったと見て 差し支えはないのである。これに加え、旧約聖書や『コーラン』等への影響など、後世のセム文化への絶大な影響を鑑みるだけでも、この法典の存在意義には量 り知れないものがあると断言出来るだろう(11)。

新バビロニア

 ところで、ハンムラピの王国はやがてヒッタイトのムルシリ�世の攻略によって滅亡し(紀元前1595年頃)、バビロニアはその後カッシート 人の支配下に置かれることになる。そして次いではアッシリアの支配を経て、前625年、新バビロニアの時代となるのである。ヒッタイト、アッシリアの奴隷 制については後に触れることとし、今はここで新バビロニア時代の奴隷制について目を向けることにしたい。
 前節までに見て来たように、ハンムラピ法では奴隷は社会の最下級に位置する者として、賠償金額についても、医者への謝礼についても、刑罰に ついても、「法の下に平等」ではなく、大きな差別待遇を受ける境遇にあった。奴隷たちは逃げるだけで死刑(15条)であり、頬を打つだけ、或いは主人に反 抗の言を述べるだけで耳を剃がれた(205条、282条)。しかしながら、留意すべきことに、一方ではバビロニアの奴隷たちは売買・契約の主体となり(7 条)、結婚・再婚の機会を持つ(175条、176条)といった形で、一定の「人格」を認められてもいた。奴隷の待遇には、想像以上に温情的な寛容さが示さ れる場合もあったのである。古バビロニア期の諸王が、債務を帳消しとして奴隷を解放する一種の徳政令を度々実施した(12)ことは、この温情主義の国家的 行政レヴェルでの現われと見ることが出来る。そうした伝統を受けて、新バビロニア時代[前625‐前539年]には、「バビロン市に入る者は犬でも自由」 と言われる様な独特の状況が生まれた。そして、奴隷に対する比較的マイルドな扱いも徐々に一層広範囲にわたって見られる様になり、奴隷の中には、主人の単 なる手代ではなく自ら事業主として事業を営む者が現われたりした。法律上も、主人は勝手気儘に奴隷の生命を奪ってはならないものとされ、過度の虐待も勅令 によって禁止された。商人・職人・借地農夫等として一定度まで自立し、中には「自らの奴隷を持つ奴隷」さえ現われた(13)。
babilon2.jpg  そうした風潮の中から、「バビロニア・ルネサンス」と高らかに形容される革新的な時代が訪れることになる。即ち、ハンムラピの時代をバビロニア文明の古典 期であったと喩えるなら、新バビロニア第二代の英王ネブカドネザル�世[前604年‐前562年]の時代は、「古代バビロニアの文芸復興期」ということに なる訳である(14)。バベルの塔と推定される聖塔 Ziggurat や世界七不思議のひとつに数えられるバビロンの空中庭園は、この古代文芸復興の時期に築かれた。ネブカドネザルと言えば、二次にわたって史上有名な「バビ ロン補囚」を行ない、イスラエルの王国を滅ぼしてユダヤの民をバビロンへと強制移住させた為に、旧約聖書「ダニエル書」(第4章33)では「野獣と化して 狂死した極悪人」として描かれている訳であるが、近年の研究では、「補囚」とは言ってもユダヤ人に対する扱いには相当寛大な面も見受けられたことが指摘さ れている。「補因」は、バビロンを当代随一の世界都市に仕立て上げる為の強制的な人材確保策といった性格のもので、必ずしも鞭や鎖による暴虐が続けられた のではない、という訳である。尤も、アメリカ・インディアンの不毛地への強制移住や日本への中国人・朝鮮人労働者の強制移住の事例などを思い起こすまでも なく、父祖伝来の地を強権的な圧力によって追われるということが或る民族にとってどのような心理的影響と文化的破壊とを派生させるかについては、史家たち は特別に留意しておかねばならない。また、ハンムラピの法典があくまでも身分法という制約を持ち、多数の奴隷の人格を基本的には全く踏みにじっていたのと 同様に、古代の「ルネサンス」の舞台裏でも、奴隷たちはやはり社会の最低辺で搾取の対象となるものであった、という点にも留意が必要である。部分的な温情 主義は、あくまでも墓本的には奴隷を被差別民の地位に押し込めておくことで成り立つものであった。或る者は塔や城塞の建設の為に砂漠の炎天下で一日中働か され、また或る者は空中庭園に水揚器で水を送り続けることを routine として強制された。バビロン市内の数々の神殿の中で「神聖なる売春」を強要されたのも奴隷たちであったし(15)、借金の抵当代わりに売買された奴隷も居 た。
 そして、この「ルネサンス」の舞台裏のもうひとつ奥底の舞台裏として、貨幣経済の発達があった。鋳貨が前代とは比較にならない程の規模で大 量に流通し、例えば貸付利率は20ないし30%という、現代の悪徳サラ金にも劣らぬ高率を示して多くの自由民の没落をもたらした。商業活動の複雑化に伴っ て負債奴隷を禁ずる法律の強制力も弛緩し、高利貸しが富を独占して行く一方で債務奴隷に転落する者が激増した。奴隷となった者は数十人単位で取引・遺贈さ れる様になり、エギビー族[=ムラシュー族と共に当時の経済を午耳っていた]の或る商人の様に、財産の一部分割に際して百人もの奴隷を譲り受ける者も現わ れた。ネブカドネザル�世の死後、ナボニドス王[前555年‐前539年]の時代には、100タラント21ミナ(3040kg)の銀、5タラント17ミナ (160kg)の金と共に、実に2万8500人もの奴隷がマルドウク神殿に献納された。奴隷一人当たりの値段が銀50(16)ゼーケル(420g)と言わ れていたことを考えるなら、この「奴隷2万8500人」という数値が意味する価値は、まさに途方もないものであったと言うことが出来るだろう。

 尚、余談ではあるが、新バビロニアの栄華は、ナボニドスの時代にペルシアのキュロス�世がバビロンに攻め入るに及んで終りを告げ、バビロン 市中に捕われていた多くの幽閉民族はキュロスの手によって「解放」された。宗教や風俗に「自由」を与えたキュロスは異民族からも「寛容大王」と呼ばれて敬 愛され、1971年には大王即位2500年を記念してイランで盛大に式典が催される程であったが(17)、無論、大王自身がペルシア帝国最大の奴隷保有者 であった。ペルシア軍侵攻後もバビロン市そのものの栄華は永く続き、いわゆる四都のひとつとして「古代世界帝国」の要(かなめ)となった。マケドニアのア レクサンダー大王も東征の途次この地に逗留し、かつてネブカドネザルが造り上げた大神殿で勝利の凱歌をあげた。この若き大王がその神殿で勝利の大酒を呷 (あお)り、その挙句に不治の熱病に冒されてそのまま33歳の波瀾の生涯を閉じることになったのは、ナボニドスが世を去ってからちょうど二百年後のことで ある(18)。

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