前書き

「わたくし、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、 姓は車、名は寅次郎、

人呼んで "フーテンの寅" と発します。 不思議な縁持ちまして、たったひとりの妹のために

粉骨砕身、 売(ばい)に励もうと思っております。 

西に行きましても東に行きましても、とかく土地のおアニィさんにごやっかいかけがちな

若僧でございます。


 以後、見苦しき面体、お見知りおかれまして恐惶万端引き立てて、  よろしく、お願(たの)

み申します。」

 ご存知、『男はつらいよ』、フーテンの寅さんの、例の口上である。主演の渥美清は紫綬褒章

・国民栄誉賞などを受賞、今でも大人気で、東京都葛飾区柴又には立派な「寅さん記念館」も

建てられている。まさに「日本の顔」がそこに在ると言ってよいだろう。

 しかしそれは、今まさに「忘れられてゆく顔」でもある。

出会いの口上からして、フーテンの寅さんは、すこぶる礼儀が正しい。そして香具師(やし)として

の職人言葉が生活の中に在る。しかもその言葉は、「ことだま言霊」との深い結びつきを未だ宿すか

のように、寅さんの包み隠しのない真情を映し出している。

「聞くも涙 / 語るも涙 / 見上げたもんだ屋根屋の褌 / 大したもんだ蛙の小便 / 

駆け落ち 的屋(てきや)のなれの果て」と、リズミカルに「お涙ちょうだい」のセリフを織り交

ぜながら、「ケッコー毛だらけ猫灰だらけ、お尻のまわりはクソだらけってねえ / タコはイボ

イボ、ニワトリゃハタチ、イモ虫ゃ九十九でヨメに行くと来た / 黒い黒いは何みてわかる、色が

黒くてもらい手なけりゃ / 山のカラスは後家ばかり、ねぇ、色が黒くて食いつきたいが、あた

しゃ入歯で歯が立たないときやがった / どう? まかった数字がこれだけ、どう? 一声千円

といいたいねオイ!  / ダメか? / 八百! 六百! ようし! 腹切ったつもりで、五百

両と、もってけ! 泥棒!」と、たんか啖呵売で大道商売に精を出す。 周りには、いつの間にか

人だかりができている。

 本書第4章であつかった「市と道化と旅芸人」の世界が、その寅さんの中には息づいている。

それは、寅さんの周りに集まる「市場の人々」が互いに交わす村や町の息づかいでもあり、何百年

ものあいだ、世界のあちこちで「生活の軸」のような役割を演じていた「何か」である。現代は、

そうした「何か」が急速にうしなわれ、解体している時代である。

 『交易と心性』と題したこの本は、人と人との交わりを易くするためにさまざま工夫され、生活

を形づくってきた商業・商品の歩みをたどりながら、何よりも時代ごと、地域ごとの人々の心性

mentality の実相と変遷に着目した。ここに言う「商業・商品」は、単に売るための技(わざ)や店

舗に並べて販売する品々を意味しているのではない。そのことは本文で自ずと明らかにされるが、

さしあたっては、あらゆる「商品」はその「商品」が現れる地域や時代の「歴史と文化の結晶体」と

考えられるということを、念頭に置いておかれたい。

 劇作家の寺山修司は『迷路と死海:わが演劇』と題した書物の中で、「一番おもしろい劇は何か、

と訊かれたら、たちどころに“歴史”と答えるだろう」と書いた。本書がもし「たいへんにおもし

ろい」内容を含んでいるとしたら、それは筆者の文章力によるのではなく、何よりも歴史それ自体

の「たいへんなおもしろさ」による。 また、本書がもし「たいへんに異様な」内容を含んでい

るとしたら、それは筆者の悪趣味によるのではなく、何よりも歴史それ自体、そして私たちの心の

あり方それ自体の「たいへんな異様さ」による。私たちは誰一人として、歴史から離れて生きるこ

とはなく、心を持たずに生きることはない。つまりは、私たち自身、一人一人が、「たいへんにおも

しろく、たいへんに異様な存在」だということである。

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